あぼがどの旅日誌

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かくさしゃかい


1.先日、我ながらアホだなぁと思う出来事があったのです。昼下がり特になにをするでもなくNHKの朝ドラを漫然と観ていたんですよ。今期の作品自体は初見だったのだけれど、「エール」という名の作品であること及び二階堂ふみが主役という情報だけは把握していたので、いやー二階堂ふみってあんまり見たことないけど、宮崎あおいに似てるって話は本当なんだな!いや、まじでそっくりだわ!若いころの宮崎あおいの生き写しか!?
 と、ひとしきり関心していた番組終わりに突如現れる「純情きらり」という文字。あ、はい、これ「エール」じゃなくて宮崎あおい主演の過去の名作「純情きらり」の再放送だったのね。そら似てますわ。てか本人だもの。

2.それはさておき、三周年記念でデュエル大会が開催されるとのこと。デュエルに関しては正直賛否が……いや、はっきり言えば否が圧倒的多数なのだが、その理由としてキャラ間の格差が酷いというものがよく挙げられている。しかし、そもそも格差とはなんなのだろうか。
 格差という言葉は、ぴちぴちのアラサーである私が少年だった頃には聞き覚えがない言葉なので、おそらくそんなに古い言葉ではないとは推測できる。とりあえず「格差」という言葉で検索してみると、「価格・資格・等級の差」とある。ふむふむそうだろうなと思う一方で、では、それなら単に「差」もしくは「差がある」とすれば良いところ、あえて「格差」と呼称している理由はなんだろうという疑問も浮かぶ。
 そこで、格差という言葉の用例を考えてみると、格差社会・所得格差など、社会問題を論じる際に用いられる場合が多いことに気付く。しかし、職種や地位によってある程度「差」が生じるのは資本主義社会たる我が国では当然のことのはずなので、それにも関わらずあえて格差という言葉を用いた人の意図としては、やはり非難の気持ちが根底にあるのではないか。
 つまり、格差という言葉が使われはじめた理由として、本来同じであるべきものに差がついている!けしからん!という社会主義的な観点があるのである。よって、格差という言葉を用いるとき、そこには論じる対象が本来的には同じもしくは同等程度であるべしという含意があるのである。知らんけど。

3.はあ、土曜の夜に我ながら何を長々言っているんだろうか。だんだん書くのも面倒になってきたが、とにかく、現状キャラ間の性能差が存在するのは否定できないだろう。しかし、差があること自体は必ずしも悪いことではないはずである。一国を武力でまとめる王様ゾルバがぽっとでの村人に性能的に凹られるのはさすがにちょっとおかしいと思うし。まあ当のゾルバは部下に遠くから矢を射られたら即死するわけだけど。
 格差を嘆く人達の気持ちは正直非常によく分かる。よく分かるけれど、残念ながらそもそも運営はあまり深く考えてキャラ調整を行っていないと思われる。ソルヴィフ対策にプリア、ミルコ対策にレオ、など、対戦環境への影響を考慮せず(できず)てきとーに出した壊れに更なる壊れをかぶせ、結果巻き添えで他のキャラも死滅するみたいな流れは何度も見ているはずなので、キャラ調整周りはあまり期待せずというか半ば諦めるぐらいの気持ちでいた方が心穏やかに過ごせるのではなかろうか。

4.人間過度の期待は何事も禁物である。何度も浮気をする男を信じ続け、そのたび裏切られた!と嘆くよりも、こいつは浮気をする男だとはなから割り切って付き合うか、見切りをつけて他をあたるかした方がよほど賢明なのである。良い意味での諦め。これ非常に大事。


あぼがど

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