あぼがどの旅日誌

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餅は餅屋に


1.年の瀬である。なにかと面倒事も多い時期ではあるが、年末特有のこの雰囲気が好きな人も少なくないのではなかろうか。私もです。
 年末といえば、日本人の大多数が好む味であるはずなのに、年末年始のこの時期にしかお目にかからないなんとも思議な食べ物がある。そう、である。
 餅は年末年始あれほどヘビーローテーションされているにも関わらず、正月を過ぎ数週間もすればすっかりなりを潜めてしまう。まるで初めから存在しなかったかのように。二月頃に、「いやー今朝の朝食は切り餅三個でしたわ」とか言ってる人を今まで見た事ないし、実は日本人はそれほど餅好きではないのかもしれない。

2.少々時機を逸した感もあるのだが、二周年記念メインストーリーで宇宙怪獣討伐の手助けを頼まれた場面において、確かボグスだったろうか、「餅は餅屋だ」というような返答をしていたのを覚えている人はいるだろうか。私自身、今回のストーリー自体がしょうもなかったことも相まって正直記憶もあやふやなのだが、この場面はとってつけたような、まるで覚えたての言葉を使ってみたかのような滑稽さが妙に印象に残っている。餅は餅屋言いたいだけちゃうんかと。
 餅は餅屋とは、なにごとも素人ではなく専門家に任せた方が良いことのたとえとされるが、これはやや丁寧さを欠く説明であろう。ある分野において素人よりも専門家が優れているのは当然である、というより優れているからこそ専門家なのだから。
 餅は餅屋という言葉の肝は、「餅作り」という、本来やろうと思えば誰でもできる類の物事を例にしているという点にある。この、「誰でもできる」という点が餅は餅屋という言葉にとって極めて重要な要素なのである。もし、「餅」の部分が「餅」ではなく何か専門性を感じさせる言葉、たとえば「手術」であったらどうだろう。手術は医者!と言われても、そりゃそうだね。だから何??と一蹴されて終わるのである。
 つまり、餅は餅屋という言葉は単に専門家の優位性を説いた言葉ではなく、高度な専門性を必要とする分野ではない一見誰でもできそうな簡単なものごとであってもそれを専門とする玄人と素人の間には差があるんだよ、ということを言い表そうとしたものなのである。
 この言葉、わざわざ餅を引き合いにだしているぐらいであるから、「餅作りは確かに誰でもできます。ですが、やはり我々餅屋がついたお餅は一味違うおいしさでしょう?ほら餅屋から餅を買え!」という餅屋の巧みなマーケティング活動の成果によって普及したのかなと考えてしまいがちだが、どうやら江戸の庶民が正月の忙しい時期に自分達の代わりに餅屋に餅を作ってもらったことが由来らしい(諸説あり)。
 しかし、正直由来などはどうでもいい。たとえ自分以外の誰でもできる、容易に替えの効くつまらない仕事であっても、素人を凌駕する実力を見せるべしとの仕事の美学というか人生訓が垣間見えるこの言葉が、私はとても好きなのである。

3.名句を産む一方で、餅は日本人の、とくに高齢者の命を脅かす危険な存在でもある。毎年餅を喉に詰まらせて亡くなる高齢者がニュースになっているはずだが、それでも果敢に餅に挑もうとするのは正常性バイアスの成せるわざだろうか。年末年始は餅がヘビロテされる季節である。身近に高齢者がいる人は、くれぐれも餅を喉に詰まらせることのないよう重々注意して見守ってあげてほしい。
 あぼがどは、キャラストと餅が大好きな高齢者を応援しています。


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