ゆ((´-ω-`の旅日誌

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問題と向き合う事とは


私は口調がキツいけど。
言った言葉で相手が傷付くって知ってても、
敢えて言う。

相手に「嫌われる事」も承知で
(嫌われたら私だって悲しいって事も
折込済みで)言葉にしてるんだ。

その覚悟も出来ん奴が
人の痛みにも配慮せず
一丁前に悲しいとは何事じゃと。

身の程を知るって言葉がある。

それは自然体で、生きていく上で
凄い重要な事なんだよなぁ…

出来ない事は現実にある。
限界だってあるけども

人を自分の弱さに巻き込まないで
過ごそうと努力する姿勢は
他人とではなく、自分との戦いって事だ。

戦う事=争う事じゃない。

勘違いしているんだと思うがな

現実に起きる事と戦うってのは

「自分の心の持ちよう」
考え方の問題と向き合うって事で。

全てあるがまま
前向きな方向に意識を向けるって事だ。

誰もが持ち得た環境で精一杯
幸せになる努力を為している。
先ずそう思う事だ。
自分が幸せを目指す為に。

悪意に感じる受け方は、それまでの嫌な経験から、脳の記憶が最悪を想定して防衛体制を図る前準備としては自然な行動だ。

Twitterでも、結構自己擁護の心理から
勝手に(ムッ)としてる人とも出会ってきたが。

だからと言うて…相手を知る前に、言い方一つで悪意を真先に疑って、感情的になるのは、早急過ぎるだろ。

自分の心の在り方(思った・感じた)の問題は、
話し合う事でしか事実確認の手段はない為
「他人の言動が問題」ってのとは、別問題。

オネエ曰く言い方に気を付けろと
私も常々注意を受ける手前…
偉そうな言葉言えた義理は
ないんだが(苦笑)

争いを避けるってことは、大事だが。

腹割って話し合う事もしないなら
敵も出来ないが、理解者も生まれない
関わる努力を自ら拒否してるってことだ。

人との関係を紡ぐってことは
己を先に磨かなきゃいけないって事だ

誰かの支えになる時に
恩着せがましい言葉は要らない。

「誰かに何かしてあげる」
との…上から目線的奉仕意識ではなく。

関わる人を気遣うのは
「自分自身の為にこそ」

誰かの為に何かして“あげ”た…あげる。
そんな“上から目線と観られる”言葉は
周囲の不快を誘う。

「自分がしたいと思った事」だと
見返りを求めずに行動するのが
人としての基本。

物の言い方は、
育成段階の教育が大きく占めるので
言葉を憚る・弁える
これは社会人になるまで
知らない人も中にはいる。

それでも自分が気付かなくても
周囲から遠回しでも注意されたら

注意された時点で
「言い直す努力」が必要とされる。
(言い方ついては、私だってやらかした経験者だから偉そうに言ってるんではなくて、やらかし先生的意味合いで観てくれればいい)

不慣れな事に失敗は誰にでもある
失敗は以後気を付ける事で徐々に改善
誰もが何度も揉まれ、周囲との摩擦を踏み越えつつ覚えるのが「人を不快にさせない心掛け」それがマナーという礼儀。
それは社会秩序の維持に必要な概念。


問題発生原因は

無意識」を言い訳


気付いても尚
「問題視してない」言葉の選び方


気付け!と投げられた言葉で
言ってる人は「嫌な役」を買っている。
言われてる人だけ
嫌な思いしてる訳じゃない


だったら言わなきゃいいじゃん」
ではない。


言わないままだと気付かない
=周囲の不快感は続く

相手は「状況打破」の為、
仕方なく言うしかない。

本人に伝えるのは、優しさ

教えるのは(自分含め)周囲の空気を
継続的に不快にしない為でもある。

それは「個への叱責」と受け取らず、
その注意をした人を
今後受け入れる為に
必要なプロセス

厳しくもあるが、全体を配慮した優しさ
と観るもの。

相手にしない前提なら、
アッサリ注意なんてせず
人の輪から追い出して
「終了」してんじゃない?


逃げるな!って言われる根本は、
自己擁護を無意識にする部分への指摘。

「そんなつもりはない」
↑この台詞

(そう思われたのは何故だろう)と
自分を振り返ってる?


自分はそんなことない(絶対的自己肯定)

という自己主観を一度置き、
そう観られた理由
自分の中に探した事があるのか?

相手も辛かった事があったかも…
↑と思いやれる事が大事。
(これが受け止めるって事)

その上で話すべき事は話し合い
誤解は解き互いが譲歩する。

それが人付き合いで、距離の取り方

「自分の為に、人を気遣う心」とは
恩着せがましい言葉を口にする必要はない。
情けは人の為不成と思う事こそ大事

自分だけの主観で、
相手の意図を掴んだ気になり
なんで自分に辛辣なのか?
なんて思い込むのは
結局「自分しか」観えてない…
いや正確には
「自分すら観ていない」証拠だ。

本当に相手を気遣える人なら
自分ならこうする!で終わらせず
一度は相手の意見を観ようと努力する


自分の主観で思い込み判断した挙句
相手の本心知ろうともしないで

自分の主観(憶測)で勝手に感情的になり
黙秘決め込んで捨て台詞吐いて
後は殻に篭る…
それは、
配慮を持ってる人のやる事じゃない
他人への遠慮も配慮ない人のやる事。

相手を誤解したままだと無意識に他人を
傷付ける事にも気付かない結果に陥る。

自己主観を押し付けられた瞬間から
自らの体験で嫌な事とは実感してるよね。

“不快になる事“がどういう事かは
実は無意識にでも分かっている。
それなら”不快にさせる事”についても
考慮すべき事。(相互観察)


それを言葉という形にして
相互確認」してしまえば
責任の正確な所在位置“にも気付くので
=自己否定に繋がるから
”そんな事思ってない“と論議を避ける。
(これは傷付き過ぎてる人の自己防衛本能)

端を発している問題に向き合わず
「不必要に邪推して臆病になった部分」が
相手を傷付け自分にしっぺ返しの悪循環が起こるに過ぎないんだけど。

我が身の辛さを感じた事があるなら
相手の心の痛みだって理解する努力ってのは
相手に対する最低限の配慮(礼儀)だ。

痛みを恐れて、真実を観ようとしない人は傷付き過ぎた経験を持つ哀しい時間を過ごしてきた人かも知れん。

だから…追い詰めて責めようとかって意味で
コレを綴ってるのではない。

自分の痛みに直ぐに気付くのなら他人の痛みにも気付いて欲しいと述べる人は、持ってる優しさで受け止める為に伝えようと努力している段階。

自分の心を大事に扱うように
仲間の心も大事に扱ってくれないか?
それは結果的に
自分に良い形で返ってくるってお話。

いつも思い通りの結果に
ならない事ばかり
多くあったかもしれない。

それでも諦めずに前を向くってのは
良い自分も悪い自分も
存在していると認めた上で
反省したら、繰り返さないよう心掛ける。

そういう事なんだよなー…
(´・ω・`)




ゆ((´-ω-`

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