へるんの旅日誌

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本居宣長。


 本居宣長。
本居宣長が商売に向かないとあきらめた母は、本居宣長に医師になるよう勧めます。母の計らいにより23歳で京都へ出た本居宣長は、医学とともに儒学の一分野である朱子学(しゅしがく)を勉学。江戸幕府は、朱子学を保護していたため、医者も朱子学の知識を身に付けることが望まれていたのです。
この遊学期に本居宣長は古事記「源氏物語」(げんじものがたり:平安時代に書かれた日本最古の小説)など日本の古典と出会い、古典文学に強い関心を持つようになりました。
1757年(宝暦7年)、松坂に戻った本居宣長は、28歳で内科・小児科を開業。人が変わったように熱心に働き、患者がいれば正月でも診察し、片道六里(約24km)の道のりを往診に出掛けました。子どもの病気は親に原因があるとして、親の診察まで行ったとも伝えられます。

本居宣長は、昼間は医師の仕事に専念し、夜間に独学で古典の研究に励みました。なかでも、「源氏物語」などに描かれた「もののあはれ」(しみじみとした趣や、無常観的な哀愁)に関心を持ち、これこそが日本固有の情緒だと考えます。
その思いを広く伝えようと、本居宣長は診療後に自宅で歌会を開き、源氏物語・「古今和歌集」(こきんわかしゅう:平安時代に天皇の命によって編纂された歌集)・「万葉集」(まんようしゅう:奈良時代末期の日本最古の歌集)などの講義を開催。
33歳の頃には、江戸の国学者・歌人「賀茂真淵」(かものまぶち)が著した、万葉集の研究書に惹き付けられ、国学を研究する道を志します。国学とは、儒教・仏教が伝わる以前の古典研究を通して、日本独自の文化・精神を追求するという学問。
あるとき、賀茂真淵が「伊勢神宮」(いせじんぐう:三重県伊勢市)の参拝帰りに、松坂に滞在していることを知った本居宣長は、宿に出向いて教えを請いました。賀茂真淵は快諾し、師弟関係になった2人は夜通し語り明かしたと伝えられます。
このとき賀茂真淵から、もし本当に国学を極めようと思うのであれば、源氏物語より300年も前に書かれた古事記の研究をしなさいと言われたことが、のちの研究に結び付いていったのです。その後は何度も手紙をやりとりして親交を深めます。しかし1769年(明和6年)に賀茂真淵が死去したため、子弟が直接会って話したのは、その日が最初で最後でした。


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